伝統芸能の担い手を増やしながら、かみのやまの良さを伝えていきます。
藤原 雪さん(上山藩鼓笛楽隊隊長 篠笛奏者)
秋の大祭・上山三社みこし行列の空に響くのは、上山藩鼓笛楽隊による勇壮な調べ。市民に親しみ深いこの曲は、江戸から明治へと時代が大きく変わる頃、遠くはフランスから伝わりました。幼少の頃から音楽家を志し、現在は篠笛の奏者として国内外で活躍する藤原 雪さんは、自身のルーツであるこの鼓笛楽保存会の会長を務め、地域の伝統芸能を未来へ伝えるべく精力的に活動しています。
音楽、そして鼓笛楽隊とはいつ頃出会ったのでしょうか。
生まれが上山城の麓の家だったことや、姉が小さな頃から篠笛を吹いていたこともあって、物心がつく以前から音楽とまちの伝統芸能をとても身近に感じていました。
実際に篠笛の演奏をはじめたのは、小学校の和太鼓藩楽クラブに入ってからで、そこでは秋祭りで演奏する曲を習いました。クラブの先生はとても優しい方で、当時いつもおどおどして、人と話したり自分を表現したりすることができずにいた私に「何も気にしなくていい。演奏に集中すればいいの。もっと良い音が出せるから」と声をかけてくれました。その言葉がきっかけで自分らしく音楽と向き合うことの楽しさや、演奏を通じて他者と分かり合えることの素晴らしさを気づかせてくれたのです。その日以来、私と音楽の結びつきが、より一層強くなったと感じています。
クラブに入った子どもたちは、秋祭りで演奏をする機会を与えられるのですが、それがまた良い経験になりましたね。武家装束に身を包み、祭りを盛り上げようと頑張る演者さんたち、沿道から応援してくださる観客のみなさんの様子を目の当たりにすると、子どもながらに誇らしさを感じました。「この曲が聴きたかった」、「懐かしい、嬉しい」など、寄せられる声に励まされ、「よし、来年も頑張ろう!」と思いながら、早くも30年以上経過しましたが、初めてあの場に立った日の感覚は、今でも私の中に息づいています。
しかしそんな私も、音楽の道を諦めかけたこともありました。
ターニングポイントはあったのでしょうか。
高校生の時、親に「音楽で生きていきたい」と伝えたところ、猛烈に反対されてしまって、一度は音楽とは全く関係の無い別の仕事に就きました。しかし、働きはじめて数年経つ頃に、東日本大震災が起きたのです。多くの方が犠牲となり、とても辛い気持ちになりましたが、同時にやりたいことに全力で挑戦しようという気持ちになりました。ちょうど震災から一年が経つ頃、ネパールで情操教育が足りていないという事実と、その現状を変えるために現地で音楽教師を募集していることを知った私は、ぜひやらせて欲しいと志願しました。
当時のネパールは学力至上主義の弊害で、勉強ができないことに苦悩し、その後の生き方を見出すことができない子がたくさんいました。だから教師として、私は音楽の楽しさと自分を表現する術を伝えながら、一緒に歌ったり踊ったりしながら子どもたちと過ごしました。音楽クラブを設立し、校歌を作っては、私がネパールを去った後も子どもたちが学校で音楽を続けられる仕組みづくりに取り組んだのです。あれから10年の月日が経ちましたが、当時の子どもたちとはSNSで今でも繋がっていて、日々校歌を歌っては成長した今の様子を伝えてもらっています。
私はこの経験から、音楽は人との繋がりを生み出し、なんらかの希望の火を灯すような可能性を持っているのだと確信しました。
帰国後のかみのやまとの接点について教えてください。
帰国後はプロの音楽家を目指し、私は東京を活動拠点に選びました。しかし、かみのやまは私を育ててくれた場所であり、鼓笛楽隊の活動は私が私であるためにとても重要な要素ですから、月に一度の練習会には必ず帰省して参加します。私にとってこのまちは、無心で演奏に没頭できる、かけがえのない場所なのです。もしかみのやまに定期的に帰って来られないなら、私はきっと途中で挫折していたでしょう(笑)。ネパールにいた一年間を除いて、鼓笛楽隊の練習を一度も欠かしたことがありません。
かみのやまにはどんなまちになってもらいたいですか?
現在、全国では部活動の地域移行という動きがあります。そのなかで、鼓笛楽隊で活動したいと思う子どもたちを積極的に集め、まちの伝統芸能への関わりを増やしていきたいです。
そして次の段階では、子どもたちが活躍できる場を提供したいです。鼓笛楽隊に伝わる音楽のルーツはフランスにありますが、そのご縁で大阪・関西万博のチームEXPOパビリオンでの演奏の話が持ち上がっています。また、海外友好都市ドイツ・ドナウエッシンゲン市で開催されている音楽祭への出演の話もいただいていますが、もしそれらの話が実現したら、参加した子どもたちにとってかけがえのない経験になるはずです。同時に自身にとって強い自信となり、伝統芸能を通じて、まちに関わっていることで、ふるさとへの誇りも持てるようになると信じています。 かみのやまには、そのようなサイクルが、当たり前に繰り返されるまちになって欲しいですね。
表現するのは難しいのですが、かみのやまを例えるなら、肉体や心のような、「私」そのものを構成するもの全てです。幼い頃から鼓笛楽隊に所属して、まちの文化や芸能を学び、それをずっと大事にし続けてきたからこそ心の底からそう思っています。かみのやまという軸のような存在が無かったら、音楽家としての活動も、今のように続けることができなかったと思うのです。
まちへの恩返しではありませんが、もっとたくさんの人にこのまちのことを知っていただきたいし、実際に来て温泉に入ったり旬の味覚を味わったり、行事や鼓笛楽隊の活動にも参加したりして、その良さを体験して欲しいと願っています。これからも出会う人たちみんなに、大好きなかみのやまを伝えていきます。